「重要な」対象としてのキャラクター(成上友織=一通目)
この論考はキャラクターについて、それも日常的なコミュニケーションの場における「キャラ」よりも専ら創作物における生物表象としてのキャラクターについて検討を行う。そこで差し当たり目標としたいのは、キャラクターという概念になるべく包括的で、しかも個々の作品を読み・書くときの助けになるような具体性を持った枠組みを与えることだ。この目標は、キャラクターが一方では広汎に、他方では局所的に働きかけることを考えたとききわめて重要なものとなるように思われる。キャラクターがきわめて広い領域で成立する存在であることはしばしば指摘されてきた。キャラクターは漫画・アニメ・ゲーム・小説といった様々な形式に通底する表現課題となっているばかりか、それぞれに異なる表現形式や作品が「ひとりの同じキャラクター」を描きもする。したがってキャラクターの定義は、必然的にひとつの表現形式にも作品にも従属しないものとなるだろう。だがそれだけでなく、キャラクターはひとつひとつの作品制作や作品読解の、きわめて具体的な領域においても重要な役割を果たす。「この場面ではこのキャラクターをどう動かせば・描けばよいのか」作家は日夜考えているはずだし、あのキャラクターやこのキャラクターの存在は作品体験において切り離せない。キャラクターがひとつの作品の成立にきわめて具体的なかたちで働きかけることを無視した考察は、私たちにとってキャラクターの何が重要なのかを見失わせることになるだろう。
キャラクターの「広さ」と「狭さ」の両方を捉えるという目標のために、ある特異な態度が要請されることになるだろう。それは、作品に外在的でも内在的でもないような、あるいはそのどちらでもあるような態度である。それが具体的にはどういう態度でありどのような文章を生むものなのかまだ筆者にもわからないが、おそらくそういうものが必要だという予感は、キャラクター概念の両義性についての先の考察から自然と生まれる。キャラクターは作品逸脱的でありながら作品内在的である。したがって、キャラクターのことを考えるとき人は作品の外にも中にも留まることができない。本論はこの認識のもとに、「そもそも作品の外や中とは何を意味しているのか」という問いを横目で見つつ展開されることになるだろう。
そしてキャラクターが公的にも私的にも作用するということは、「なぜキャラクターについて考えているのか」という問いへの答え方にも一定の注意を促す。筆者は「キャラクターとは何らかの特記すべき点を持った表現である」という前提から出発するにも拘らず、たとえばライトノベルのキャラクター描写は西洋文学の人物描写とくらべて決定的に新しいといったような主張に興味を持たない。私がキャラクターについて考えるのは、キャラクターが特別だからであるというよりは重要だからなのである。したがって「キャラクターのなにが『新しい』のか」とか、「キャラクター表現など昔からあったのではないか」というしばしば頭をもたげてくる問いは、ここではさして問題にならない。
キャラクターの「特別さ」を積極的に主張しないという態度は、「あれはキャラクターで、これはキャラクターではない」という区別に拘らないことにもつながるだろう。あれもキャラクターかもしれないし、これもキャラクターかもしれない。たとえば「二次創作への開かれ」がキャラクターの成立する条件だとして、どんな文学作品の登場人物でも「やろうと思えば」「いくつかの条件が揃えば」二次創作の対象となり得るのではないか? もしかしたらあらゆるモノは──すくなくとも人物表象一般は──キャラクターになりうるのかもしれない。だがそうだとしても、いま私たちにはほかの対象を差し置いて「はっきりとキャラクターに見える」いくつかの対象が存在する。私が考察するのは、差し当たり彼や彼女を「はっきりとキャラクターとして」見せるその条件についてである。
これでこの論考の進む方向性をある程度示したものとするが、最後に「キャラクターとは何か」という問いへの極めて大雑把な答えを、ここまでの議論の運びから示したい。ひょっとしたらあらゆるモノがキャラクターかもしれないが、そのなかに「はっきりとキャラクターに見える」対象が存在する。そしてそのような存在は、人にとって「重要な」対象として現れる。言い替えればキャラクターとは、人との主観的で個人的な関係においてこそ成立する存在なのだ。自分となんら「個人的な」関係を結び得ない存在を、人はキャラクターと呼ぶ気にはならないのではないだろうか。ここで、冒頭で退けておいたはずの「コミュニケーションにおける役割」としてのキャラクターがふたたび「生物表象としてのキャラクター」のなかにも見出されることにも注意されたい。本論は「創作物における生物表象としてのキャラクター」について考察するが、それは「コミュニケーションの場」から離れ得ない考察なのかもしれない。
キャラクターを宿す媒体としてのアイドル(松本友也=一通目)
確かに「キャラクター」と呼ばれるものの定義や領域を捉えることは困難だ。私たちは以前にも、こうした問いを掲げて議論を重ねたことがある(本誌一号参照)。その時に掘り下げたのは、ある任意のキャラクターを、「その」キャラクターだと同定するための条件は何なのか、という論点である。あるキャラクターは、様々な人びとの中に違った形で現れうる可能性を持っていながら、しかし一定の共通了解として存在する。先鋭化した二次創作表現が普及した現在のネット環境において、人は、ある存在について「これは初音ミクではない」「これはミクだ」などと様々に言いうる。さしあたり、キャラクターの同定はそのキャラクターについての知識(図像的特徴や作品内での振舞い)何らかの手がかりを元にした推論によって行なわれる、ということが言えるだろう。しかし、先の議論では、「なぜキャラクターに惹かれてしまうのか」という問いを意図的に捨象し、あくまで客観的なアプローチでキャラクターの定義の可能性を模索していた。もちろん、萌芽的な仕方ではあるが、可能的同定(「ミクでもありうる」)、事実的同定(「ミクであるとされている」)の他にも、欲望的同定(「ミクであると思いたい」)というキャラクター認識の枠組みも提案されてはいた。そこで挙げられていた例は、アメコミ調で描かれたゴツい容貌のミクを人びとがどう感じるか、というものであった。ミクだということを同定することは可能だが、しかしミクだとは思いたくない、「コレジャナイ」感がどうしても出てきてしまう、というような事態から、キャラクターの認識の問題が一筋縄ではいかないことを再確認することとなった。今回のこの往復書簡は、そうした「魅力」ないし「欲望」というファクターを捉える方法を模索する目的で行なわれている。とはいえ、前回のように包括的な理論枠組みを提示するのではなく、むしろ自分自身がキャラクターをどのように経験しているのかということをごく個人的に内省することで、そうした探究の取っ掛かりを掴むことを目指している。
私がキャラクターに惹かれる瞬間を思い返してみると、ある特定のキャラクターへの思い入れは実は少なく、むしろそれぞれのキャラクターが見せるある瞬間的な姿勢、キャラクターの生のきらめきのようなものに惹かれていることに気づく。時間的な幅を持った統一的な存在としての、つまり登場人物としてのキャラクターではなく、キャラクターという瞬間的な現象のほうに関心を持っているのである。キャラクターが立ち上がってくる瞬間に期待し、ショーを見ているような感覚で、キャラクターがエネルギーを放つ瞬間を待ち望んでいる。想定しているのは、ラブライブやアイドルマスターのようなアイドルを主題にした作品におけるステージパフォーマンスや、OP映像でのリズムに合わせたキャラクターの所作・運動などである。
アイドル、あるいはステージパフォーマンス的なものとキャラクターを結びつける見方をここで押し出すのは、キャラクターと人間の関係に限定的な角度から光を当てたいからである。具体的には、瞬間的現象としてのキャラクターと、運動する身体イメージを重ね合わせて考えてみたい。
人間の身体と、身体のつくりだす無数の態勢(disposition)が、キャラクター現象を生み出す母体となる。あるいは逆の言い方をすれば、人間はキャラクター的にしか人間を捉えられない。態勢そのものを捉えることはできない。一般的に、言語の性質あるいは人間の認識能力の限界により、人間の認識は経済性に従い、そのつど多かれ少なかれステレオタイプな見方を投射する。そして、それはすなわち「その人自身」、「それそのもの」にはアクセスすることができないということを意味する。つまり究極的には、人間にとって、他の人間の存在は、「人間のようだと推察できる何か」でしかない。そして自分自身の身体も気質も、自分自身には明瞭には理解されない。自分自身とはブラックボックスとしてしか経験されないのである。一個の生物や知的な生命の存在は、その生物の振る舞いが統一や一貫性を持っていることによってのみ感じられる。
キャラクターとはまさしく、この統一性や一貫性から生み出される、人格のように感じられる何かである。注意すべきは、ここでいう人格とは、「持つ」ものではなく、受け取られる・見出されるものだということである。人間は当然人格を示すが、人間ではないものも人格を感じさせることがある。たとえば、人は飼われている犬の振る舞いに人はしばしば人間らしさ、人格を読み取る。対象が生物かどうかに関わらず、擬人法を自在に適用する。
人格とは、統一性を読み取る手がかりを、統一性を壊さない形で配置するということである。そしてこれを逆手に取り、手がかりを絶妙に配置することによって、存在しない人格を存在させることができる。人格が言葉や絵や映像によって表現されれば、虚構の登場人物、すなわち一般的な意味でのキャラクターとなる。推論の束が収束する焦点・盲点としての中心点を、キャラクターと呼ぶことができるだろう。このキャラクターを、一旦、身体とは独立させて定義することが必要である。キャラクターは、実在する何らかの対象のことでも、対象の属性のことでもない。ある種の配置によって誰かが読み込む関係であり、誰かの認識のなかに生じる効果であり、言ってしまえば錯覚のようなものである。
同じ人でも、化粧や衣裳を変えれば、それぞれ異なったキャラクターを実現することができる。手がかりを配置するのである。ある状況に対するある応答の関数がキャラクターだ、という見方も可能だろう。態勢、ポーズ、構えはキャラクターを召喚する。[本誌へ続く]