• 「重要な」対象としてのキャラクター(成上友織=一通目)

    この論考はキャラクターについて、それも日常的なコミュニケーションの場における「キャラ」よりも専ら創作物における生物表象としてのキャラクターについて検討を行う。そこで差し当たり目標としたいのは、キャラクターという概念になるべく包括的で、しかも個々の作品を読み・書くときの助けになるような具体性を持った枠組みを与えることだ。この目標は、キャラクターが一方では広汎に、他方では局所的に働きかけることを考えたとききわめて重要なものとなるように思われる。キャラクターがきわめて広い領域で成立する存在であることはしばしば指摘されてきた。キャラクターは漫画・アニメ・ゲーム・小説といった様々な形式に通底する表現課題となっているばかりか、それぞれに異なる表現形式や作品が「ひとりの同じキャラクター」を描きもする。したがってキャラクターの定義は、必然的にひとつの表現形式にも作品にも従属しないものとなるだろう。だがそれだけでなく、キャラクターはひとつひとつの作品制作や作品読解の、きわめて具体的な領域においても重要な役割を果たす。「この場面ではこのキャラクターをどう動かせば・描けばよいのか」作家は日夜考えているはずだし、あのキャラクターやこのキャラクターの存在は作品体験において切り離せない。キャラクターがひとつの作品の成立にきわめて具体的なかたちで働きかけることを無視した考察は、私たちにとってキャラクターの何が重要なのかを見失わせることになるだろう。

    キャラクターの「広さ」と「狭さ」の両方を捉えるという目標のために、ある特異な態度が要請されることになるだろう。それは、作品に外在的でも内在的でもないような、あるいはそのどちらでもあるような態度である。それが具体的にはどういう態度でありどのような文章を生むものなのかまだ筆者にもわからないが、おそらくそういうものが必要だという予感は、キャラクター概念の両義性についての先の考察から自然と生まれる。キャラクターは作品逸脱的でありながら作品内在的である。したがって、キャラクターのことを考えるとき人は作品の外にも中にも留まることができない。本論はこの認識のもとに、「そもそも作品の外や中とは何を意味しているのか」という問いを横目で見つつ展開されることになるだろう。

    そしてキャラクターが公的にも私的にも作用するということは、「なぜキャラクターについて考えているのか」という問いへの答え方にも一定の注意を促す。筆者は「キャラクターとは何らかの特記すべき点を持った表現である」という前提から出発するにも拘らず、たとえばライトノベルのキャラクター描写は西洋文学の人物描写とくらべて決定的に新しいといったような主張に興味を持たない。私がキャラクターについて考えるのは、キャラクターが特別だからであるというよりは重要だからなのである。したがって「キャラクターのなにが『新しい』のか」とか、「キャラクター表現など昔からあったのではないか」というしばしば頭をもたげてくる問いは、ここではさして問題にならない。

    キャラクターの「特別さ」を積極的に主張しないという態度は、「あれはキャラクターで、これはキャラクターではない」という区別に拘らないことにもつながるだろう。あれもキャラクターかもしれないし、これもキャラクターかもしれない。たとえば「二次創作への開かれ」がキャラクターの成立する条件だとして、どんな文学作品の登場人物でも「やろうと思えば」「いくつかの条件が揃えば」二次創作の対象となり得るのではないか? もしかしたらあらゆるモノは──すくなくとも人物表象一般は──キャラクターになりうるのかもしれない。だがそうだとしても、いま私たちにはほかの対象を差し置いて「はっきりとキャラクターに見える」いくつかの対象が存在する。私が考察するのは、差し当たり彼や彼女を「はっきりとキャラクターとして」見せるその条件についてである。

    これでこの論考の進む方向性をある程度示したものとするが、最後に「キャラクターとは何か」という問いへの極めて大雑把な答えを、ここまでの議論の運びから示したい。ひょっとしたらあらゆるモノがキャラクターかもしれないが、そのなかに「はっきりとキャラクターに見える」対象が存在する。そしてそのような存在は、人にとって「重要な」対象として現れる。言い替えればキャラクターとは、人との主観的で個人的な関係においてこそ成立する存在なのだ。自分となんら「個人的な」関係を結び得ない存在を、人はキャラクターと呼ぶ気にはならないのではないだろうか。ここで、冒頭で退けておいたはずの「コミュニケーションにおける役割」としてのキャラクターがふたたび「生物表象としてのキャラクター」のなかにも見出されることにも注意されたい。本論は「創作物における生物表象としてのキャラクター」について考察するが、それは「コミュニケーションの場」から離れ得ない考察なのかもしれない。

    キャラクターを宿す媒体としてのアイドル(松本友也=一通目)

    確かに「キャラクター」と呼ばれるものの定義や領域を捉えることは困難だ。私たちは以前にも、こうした問いを掲げて議論を重ねたことがある(本誌一号参照)。その時に掘り下げたのは、ある任意のキャラクターを、「その」キャラクターだと同定するための条件は何なのか、という論点である。あるキャラクターは、様々な人びとの中に違った形で現れうる可能性を持っていながら、しかし一定の共通了解として存在する。先鋭化した二次創作表現が普及した現在のネット環境において、人は、ある存在について「これは初音ミクではない」「これはミクだ」などと様々に言いうる。さしあたり、キャラクターの同定はそのキャラクターについての知識(図像的特徴や作品内での振舞い)何らかの手がかりを元にした推論によって行なわれる、ということが言えるだろう。しかし、先の議論では、「なぜキャラクターに惹かれてしまうのか」という問いを意図的に捨象し、あくまで客観的なアプローチでキャラクターの定義の可能性を模索していた。もちろん、萌芽的な仕方ではあるが、可能的同定(「ミクでもありうる」)、事実的同定(「ミクであるとされている」)の他にも、欲望的同定(「ミクであると思いたい」)というキャラクター認識の枠組みも提案されてはいた。そこで挙げられていた例は、アメコミ調で描かれたゴツい容貌のミクを人びとがどう感じるか、というものであった。ミクだということを同定することは可能だが、しかしミクだとは思いたくない、「コレジャナイ」感がどうしても出てきてしまう、というような事態から、キャラクターの認識の問題が一筋縄ではいかないことを再確認することとなった。今回のこの往復書簡は、そうした「魅力」ないし「欲望」というファクターを捉える方法を模索する目的で行なわれている。とはいえ、前回のように包括的な理論枠組みを提示するのではなく、むしろ自分自身がキャラクターをどのように経験しているのかということをごく個人的に内省することで、そうした探究の取っ掛かりを掴むことを目指している。

    私がキャラクターに惹かれる瞬間を思い返してみると、ある特定のキャラクターへの思い入れは実は少なく、むしろそれぞれのキャラクターが見せるある瞬間的な姿勢、キャラクターの生のきらめきのようなものに惹かれていることに気づく。時間的な幅を持った統一的な存在としての、つまり登場人物としてのキャラクターではなく、キャラクターという瞬間的な現象のほうに関心を持っているのである。キャラクターが立ち上がってくる瞬間に期待し、ショーを見ているような感覚で、キャラクターがエネルギーを放つ瞬間を待ち望んでいる。想定しているのは、ラブライブやアイドルマスターのようなアイドルを主題にした作品におけるステージパフォーマンスや、OP映像でのリズムに合わせたキャラクターの所作・運動などである。

    アイドル、あるいはステージパフォーマンス的なものとキャラクターを結びつける見方をここで押し出すのは、キャラクターと人間の関係に限定的な角度から光を当てたいからである。具体的には、瞬間的現象としてのキャラクターと、運動する身体イメージを重ね合わせて考えてみたい。

    人間の身体と、身体のつくりだす無数の態勢(disposition)が、キャラクター現象を生み出す母体となる。あるいは逆の言い方をすれば、人間はキャラクター的にしか人間を捉えられない。態勢そのものを捉えることはできない。一般的に、言語の性質あるいは人間の認識能力の限界により、人間の認識は経済性に従い、そのつど多かれ少なかれステレオタイプな見方を投射する。そして、それはすなわち「その人自身」、「それそのもの」にはアクセスすることができないということを意味する。つまり究極的には、人間にとって、他の人間の存在は、「人間のようだと推察できる何か」でしかない。そして自分自身の身体も気質も、自分自身には明瞭には理解されない。自分自身とはブラックボックスとしてしか経験されないのである。一個の生物や知的な生命の存在は、その生物の振る舞いが統一や一貫性を持っていることによってのみ感じられる。

    キャラクターとはまさしく、この統一性や一貫性から生み出される、人格のように感じられる何かである。注意すべきは、ここでいう人格とは、「持つ」ものではなく、受け取られる・見出されるものだということである。人間は当然人格を示すが、人間ではないものも人格を感じさせることがある。たとえば、人は飼われている犬の振る舞いに人はしばしば人間らしさ、人格を読み取る。対象が生物かどうかに関わらず、擬人法を自在に適用する。

    人格とは、統一性を読み取る手がかりを、統一性を壊さない形で配置するということである。そしてこれを逆手に取り、手がかりを絶妙に配置することによって、存在しない人格を存在させることができる。人格が言葉や絵や映像によって表現されれば、虚構の登場人物、すなわち一般的な意味でのキャラクターとなる。推論の束が収束する焦点・盲点としての中心点を、キャラクターと呼ぶことができるだろう。このキャラクターを、一旦、身体とは独立させて定義することが必要である。キャラクターは、実在する何らかの対象のことでも、対象の属性のことでもない。ある種の配置によって誰かが読み込む関係であり、誰かの認識のなかに生じる効果であり、言ってしまえば錯覚のようなものである。

    同じ人でも、化粧や衣裳を変えれば、それぞれ異なったキャラクターを実現することができる。手がかりを配置するのである。ある状況に対するある応答の関数がキャラクターだ、という見方も可能だろう。態勢、ポーズ、構えはキャラクターを召喚する。[本誌へ続く]

    中村:はじめます。松川昌平研究室では、現在NTT-ICCで開催中の「都市ソラリス展」に向けて「polytopia」という都市形成装置(システム)を開発しています。残念ながらまだ開発中なので詳しくその話はできませんが、このシステムの前身である「ARKHITEKTOME」というシステムについてお話します。これは昨年の末に松川研から発表したシステムで、こちらは形態生成装置(システム)という位置づけです。今日は、このシステムの話を通じて、アルゴリズミック・デザインの可能性/不可能性に迫っていきたいと思います。

    〈ARKHITEKTOME──建築の総体〉
     コンセプトを説明するために、タイトルに込めた意図をお話します。ARKHITEKTOMEは造語で、[ARKHITEKT + -OME]でできています。ARKHITEKTOMEは、architectureの語源である古代ギリシャ語「αρχιτέκτων arkhitekton」(アルキテクトーン)からとられており、-OMEはこれまたギリシャ語で「すべて、総体」といった内容を指す接尾辞omeからとっています。

    生物学の領域には、生命体の持つさまざまなome(総体)を取り扱うomics(オーミクス)という研究分野があります。一般的に「研究対象 + omics」という名称を持つものがそれで、たとえばgenom(ゲノム)という言葉は「genome=gene(遺伝子)+-ome(総体)」でできており「ある生物の持つ全ての遺伝情報」を意味しますが、これを取り扱うのがgenomics(ゲノミクス)です。他にもさまざまなomicsがあります。

    これらと同じように、我々のARKHITEKTOME[アルキテクトーム]は、建築という領域(arkhitektome)を、包括的かつシステマティックに取り扱うものです。コンピュータの計算処理能力を利用して、建築のかたちを数学的に表現・処理し、経験則ではとらえきれない様々な可能性をあぶりだそうとする試みといえます。

    〈すべてのかたちを生成する〉
     次はこのシステムの使い方を説明していきましょう。ARKHITEKOMEはウェブアプリケーションとして開発したので、サイト[arkhitektome.com]にアクセスすれば誰でも利用できます。まず、トップページを見てみます。真ん中に並んでいるたくさんの図形が、ARKHITEKTOMEで生成したかたちの一覧です。現時点で7590個のかたちがあります。

    それぞれのかたちをクリックすると、その詳しい情報がわかる個別ページが開きます。ここをみると、これらのかたちは各々が固有のビット数列で表現されているのがわかります。これはいわば、かたちの遺伝子のようなものです。

    かたちに遺伝子があるおかげで、このシステムでは、かたち同士を交配させて子供のかたちをつくらせることができます。たとえば、画面右のmother、fatherと書かれたフォームに、この7331番、羽のついた卵みたいなかたちと、7381番、ぜんぜん違うかたちを選んであげます。そして、つくる子供の数、今回は5を入力し、下のcross overボタンを押す。こうすると、新しく5つのかたちが一覧に追加されます。さっき選んだふたつのかたちの遺伝子をもとに、それらの子供の遺伝子をつくり、それをかたちとして発現させたわけです。ですので、子供にもうっすら両親の面影がありますよね(笑)

    先ほどの個別ページを下にスクロールしていくと、そのかたちの家系図が出てきます。ここでは三世代前までしかたどっていませんが、原理的にはこのシステム内部のかたちはすべて血縁関係にあります。7590個のかたちは、こうしていままでつくられてきました。

    このような生成システムを採用した理由は、求めるかたちをつくっていくプロセスにおいて、非現実的な計算を極力防ぐことにあります。いくらコンピュータを使えるとはいっても、このシステムで実現できるすべての形を出力するためには、かなり控えめに考えても人間の一生分の時間を優に超えてしまいます。ですから、求めるかたちになるべくあたりをつけることで、実際に計算するかたちを減らすことが重要です。そこで〈つくられるかたちが親の特徴を引き継いだものになる〉というルールを設けておけば、ユーザーがデザインをつくっていく際の指針になりますし、コンピュータもその都度求められたかたちの計算をすればよいだけなので、効率がずっといいわけですね。

    〈みんなでかたちを評価する〉
     さて、このシステムに限らず、サイバーアーキテクチャーやパラメトリックデザインとよばれる手法では、先にかたちをつくる仕組みさえ整えてしまえば、コンピュータの力をかりて、大量のかたちを容易にシミュレーションすることができます。こうなってくると、デザインにおける最大の問題は、かたちをいかにつくるか、ということより、膨大なかたちの選択肢の中からいかに正解を見つけ出すか、という点にシフトすることになります。

    そこで、ARKHITEKTOMEでは、トップページの左側にかたちをソーティングする(並び替える)ための仕組みを用意しました。先に実際の動作を見せますと、たとえば、max displacementとmax bendingmomentという項目が上から四番目と五番目にありますよね。これは、それぞれのかたちを物理的な特徴でソーティングするためのものなんです。

    この項目をそれぞれ-100に設定して、一番下のsetボタンを押してあげると、こういうふうにかたちの順番がかわります。だいたいが四角形のシンプルなかたちばかりになりました。建築には構造計算という領域があって、これは簡単に言うと、実際にかたちを建てたときに、それが物理的にどれだけ頑丈かを評価するプロセスのことです。自重でどれだけたわまないかとか、地震で倒れないかどうかとか、そういうところをチェックするわけです。ARKHITEKTOMEでも、かたちが生み出されるたびにシステムの裏側でこれを計算しています。先ほどのセッティングでは、displacementとbendingmomentがそれぞれ-100、つまりゆがみ方が最小のもの、物理的に頑丈なものの順だったわけです。逆に一番不安定なものの順にソーティングしたりすることも、もちろんできます。たとえばセッティングをそれぞれ+100に変えてソーティングすると、こういう感じ。うわ、さすがに厳しそうです(笑)

    とまあこういった手順で、ユーザーそれぞれの要求に対してもっとも満足するかたちを、DBの中から提案すると。DBはユーザーが利用すればするほど充実していきますから、時間がたつほど精度の高いシステムになる、というからくりです。

    ここまでは数字で表現できる、定量的な評価ですね。しかし、実際の建築を考えてみると、それだけじゃなくて、美しいとか、居心地がいいとか、コンピュータに計算できないような人間的な尺度がいろいろと存在しています。これらの評価軸についても、コンピュータにも計算できるような状態に変換できないかなと考えました。

    そこで、ニコニコ動画のタグ機能に着想を得て、このかたち一個一個に定性的な評価をタグとしてつけられるようにしてみました。それをセッティングするための項目が先ほどのmax bendingmomentの下にあります。たとえば〈ドッグ〉というタグがありますね。このタグでソーティングしてみると、こういうふうに〈ドッグ〉らしいものから順に表示されます。これが一番ドッグっぽい、その次はこれ……という具合です。

    タグ付けは誰でも何度でも可能なので、システムの中で不当に低く評価されていると思うようなかたちがあれば、タグ付けをし直してその評価を高めてやれば、ソーティングの精度は上がっていきます。[本誌へ続く]

    本稿の目的は、本誌が提唱するDreamingDesignというデザイン概念の輪郭を素描することにある。とはいえ本稿では、デザイン論やデザイン概念を直接参照することはせず、むしろDreamingDesignがよって立つ基盤となっているいくつかの思想を示すことでその目的を果たそうとしている。キーワードとなるのは、フランスの思想家・情報社会学者であるピエール・レヴィが提唱する「ヴァーチャル化 virtualisation」、そして日常用語として用いられながらも思想的な含意が深く、環境と身体の相互作用を説明する上で有用な概念として機能する「ディスポジション disposition」、そして最後に、ヴァーチャル化を身体に適用し、自らの初期条件に抵抗していく行為としての「変身 metamorphosis」である。

    まず、本誌が提唱しているDreamingDesignの概念がどのようなものであるか、概要を簡単に述べたい。デザイン史的な位置付けは、本誌収録の太田論考で詳しく述べられているため、ここではあくまでも思想的な文脈に引き寄せて説明を行う。

    DreamingDesignは、ある特定の目的に向けられたデザイン行為を名指すための概念である。その目的とは、単一の現実を複数化、あるいは条件法化(未解決化)することであり、本稿の語彙で言えばヴァーチャル化することである。今目の前に現れている現実を何らかの「結果」として捉え、その現実を再度問いの形に還元することがその目的である。しかし重要なのは、それが単なる批判や異議申立てに留まらないということであり、その意味でDreamingDesignはいわゆるクリティカルデザインとは異なる。DreamingDesignは、単に現実を批判し告発するのではなく、この現実を素材として、別の現実のヴィジョン(ありえた現実、可能現実)を作り出し、それを提示することで、この唯一の現実を相対化すると同時に塗り替える。よりシンプルに言えば、DreamingDesignの目的は、人びとが持つ固定した現実イメージの輪郭をぶれさせ、そのつど新しいビジョンが立ち上がってくるような仕掛けを作り出すことである。そこでは批判やカウンターではなく、無と多のパラドクシカルな運動を生み出すことが重要になる。

    以上がDreamingDesignの概要だが、本稿では、DreamingDesignを提唱する意義や、その前提となる枠組みについても述べる。人びとが生活空間や環境をどのように捉えているか、日々の行為のなかでどのように周辺環境と相互作用しながら自身の習慣を構築しているか、そうした問いは、DreamingDesignの具体的な内実を規定する上で不可欠なものとなる。本稿ではこうした、周辺環境との相互作用において、あるいは習慣的行為において作られる人間の(身体行為や思惟の動きの)振る舞いの型を「ディスポジション」と名付け、その形成と変容のメカニズムをヴァレリーの時間論を手引にして解説していく。また、それによって、DreamingDesignが言葉による説得や対話といった手法を用いずに、人びとの態勢の変容を目論む形でコミュニケーションを果たそうとする理由も明らかになる。

    こうした態勢=信念の変容によってコミュニケーションを目論むDreamingDesignの手法は、現実社会の再構築に用いられるだけでなく、「身体」ないし「個」という現実の再構築にも用いることができる。自分自身というブラックボックスをハックし、それを分解再構築し、自己に次々と新しい態勢を獲得させることで、環境から切り離されず飲み込まれず自在に泳ぐ仕方を身につけることができる。これが、本稿がDreamingDesignの可能性として取り上げたい「変身」の概念である。

    1.DreamingDesignとVirtualisation

    この章ではDreamingDesignの目的である単一の現実を複数化、条件法化するヴァーチャル化の方法を説明する。ピエール・レヴィの提唱したヴァーチャル化とは、単一のように見える現実をありえた無数の可能性へと戻していく運動だが、その前提には、現実や世界が単一なものではなく、多のうごめく不安定な生成そのものであるという認識がある。こうした世界モデルを、レヴィは師であるミシェル・セールから引き継いでいる。そこで、まずこの一と多の関係を説明する世界モデルを、セールを手引きにして確認していく(セールに関する記述では、清水高志『ミシェル・セール: 普遍学からアクター・ネットワークまで』、『セール、創造のモナド──ライプニッツから西田まで』を参考にした)。

    処女作である『ライプニッツのシステム』以来、セールが一貫して持ち続けている立場は、なんらかの基礎や秩序が静的に世界を構築しているのではなく、世界は「あるがままの多」によって構成されているとする見方である。この「多」とは、主体が判断を加え、何らかの認識枠組み(「一」)を押し付ける以前から存在する、拡がりを持った対象である。これは人間の認識能力では全容を捉えきれないものであり、豊かで多様な性質を持っている。この「あるがままの多」を単一性を持った「括り」、つまり限定によって捉えていくのが、主体の認識活動であると言える。このとき、この「多」は、様々な仕方で様々な括られ方をする一種の媒体のようなものとなる。多がまず前提にあり、その上で局面ごとに一が生み出されるという考え方は、仮説形成の思想と動的宇宙論的な視座を両立させてできたものであり、ライプニッツやディドロ、パースのような思想家たちにも共通して見られる考え方である。しかしセールの独創は、人間認識の背後にある「多」を積極的に活用し、「媒体」としての機能を持たせているところにある。捉えがたい多は、むしろ捉えようとする一の括りの視線を同時に結びつけるような媒体となる。括りが何通りも刻印され、多重性や畳長性を持つような対象が、セール的な意味での対象だと言える。

    こうした個体観の特徴として、一つの対象に群がる多くの人びとの様相を捉えるモデルを立てることができる、ということが挙げられる。セールはしばしば多人数でプレーする球技の比喩を持ち出すが、一つのボールをめぐって相互に牽制しあう多人数のネットワークは、このような、ノード(結節点)としての個体という考え方によって初めて問題化可能になるようなものだと言えるだろう。

    ノード同士が繋がることでネットワークが構成されるが、他の多くのノードと繋がっているノードは、諸ノードのネットワークの折り返し点として機能する。多くのノードと関係しているノード、濃度の高いノードは、他のノードへと存在を分散することで、存在可能性を高めることができる。多くのノードによって関連づけられ、括られるほど、そのノードは、単一のノードとしての制限から開放され、様々な姿を見せることができ、様々な姿であることができる。ノード同士の関係はそのつど組み変わり、どのノードを中心として他のノードを位置づけていくかもそのつど変わっていく。このようなパターンのバリエーションの複数性こそが、それぞれの「一」を際立たせる条件なのである。組み換え可能性=分離ないし個別化の条件がなければ、一はのっぺりとした、他とは区別されない平面的な存在となってしまう。重要なのは、固定された同一性など存在しないということ、そして、多である動的であることによって一でありうるような単一性が存在するということである。

    セールの高弟であるピエール・レヴィは、さきほど述べたようなノード-ネットワークの考え方を継承発展させ、ヴァーチャル/アクチュアルという概念系を作り出した。ヴァーチャルとは、端的に言えば潜在性のことである。潜在性の実現・顕在化としてのアクチュアル化と対になった概念であるが、レヴィはこれを可能ポッシブルと現実リアルの対比と同一視してはならないと度々注意を促している。設計図通りに製品が出来上がったり、CDで音楽を再生したりするように、非存在物と存在物との関係が一義的に定まっていて、単にそれが現実化するだけの場合は、可能-現実という対応関係が用いられる。ヴァーチャル-アクチュアルはそれとは異なり、出来上がりの見えない関係である。たとえば同じ音楽の例でも、楽譜とその演奏は、単なる可能-現実の関係ではなく、ヴァーチャル-アクチュアルの関係である。また、ヴァーチャル-アクチュアルの他の例として、種子と樹木の関係も挙げている。種子は、樹木へと成長する傾向(disposition)である。しかし、種子のなかに完成予想図は含まれていない。様々な環境変数によって、どのような樹木になるのかは変わってくるし、結果的にどのような形で樹木へと実現するかは、実現してからでないとわからない。まさに、種子は樹木を発明するのである。[本誌へ続く]

    More productive, comfortable, not drinking too much, regular exercise at the gym (3 days a week), getting on better with your associate employee contemporaries, at ease, eating well (no more microwave dinners and saturated fats), a patient better driver, a safer car (baby smiling in back seat), sleeping well (no bad dreams), no paranoia……[Radiohead, Fitter Happier]

    摘み、耕し、植える。食べ、燃やし、排泄する。聞き、理解わかり、話す。いくらでもこのセットは増やし続けることができるが、突き詰めれば入力し、変換し、出力するという一連の手続きの繰り返しのことを、私たちは生活と呼ぶ。その手続きには常に人工物が介在する。農耕は鋤と鍬、そして協働と灌漑の体系を要する。文明とは生活の手続きを人体以外の仕方で置き換えるコーディングことかもしれない。だから人工物がつくられ、使われる過程を理解することは、人間と人工物が織り成す手続きを書き下すデコードことになるだろう。

    翻って近代科学とテクノロジーを経由した私たちは、さしあたって現代都市という文明を生きている。土木と交通、商品、記号、機械、建築、情報──現在はこれらが一連の手続きせいかつを媒介している。

    本稿の目論見は現在の私たちの生活を、デザインされた人工物との共生系として理解することである。

    〈人間−人工物〉共生系の都市論──ポスト・ラスヴェガスを生きる

    「科学技術によって維持される身体。科学技術がなければ消滅してしまう身体。これが意味するのは、要するにぼくはサイボーグだってことだ」[伊藤計劃「制御された現実とは何か」『伊藤計劃記録:第弐位相』]

    ガンにより早逝した伊藤計劃は、医療技術なしには生を持続できない自らの状況を敷衍し、人工物としての都市に住まう私たち全てがある種のサイボーグであるとの認識を提出している。そうして彼は「人間の思考に染めあげられている」都市の現実(リアル)が、そのまま仮想現実であるのだと結論づける。

    「この世界が仮想現実であっても、それが現実であること、どこにも逃げ場のない唯一無二の現実であること、そして、それでもなお仮想現実でしかないこと」[前掲書]

    確かに、このような見立てはレトリックとして魅力的ではある。けれども、仮想現実や拡張現実といった言葉には手垢が付きすぎている上に、結論が性急すぎるようにも思う。そのため、ここではもう少し慎重に、かつ即物的に、伊藤の言うコンセプトを翻案してみたいと思う。本章では仮想現実というタームを、現代都市におけるデザインの問題から読解することで〈人間−人工物〉共生系として捉えることを試みる。

    モダンデザインから見るポストモダン
     前提として、私たちはモダンデザインがもたらした物質文化に暮らしている。モダンデザインの原理とは、機械生産が可能にした規格化と標準化である。生産速度、生産量、コストの低下といった拡大の論理に導かれて、規格化と標準化が要請される。例えば、自動車を一台つくるために、工場を設え、部品を規格化し、人員を配置する。手順の標準化の結果として、効率的な分業が可能となる。これは前近代のデザインが職人による手仕事に多くを負っていたという事実からの歴史的断絶として理解しうる。属人的な一回性の職人技ではなく、単純作業の連なりとしてデザインプロセスを定式化したことが、モダンデザインの成果であった。

    大量生産は均質な商品の安定供給によって「大衆」という観念の基礎をつくった。そのまま現代都市は消費社会を突き進む。ポストモダンと呼ばれる時代の都市は、市場の全面化として立ち現れる。

    「ありうべき社会像を描き出す政治的な展望がないとすれば、こうした市場経済の論理がそのまま唯一の政治的展望となってしまい、その政治的展望によって、わたしたちの欲望が支配・管理されても不思議はない。わたしたちは管理された欲望を、自由な欲望とはきちがえつつ、ひたすら消費(そして生産)しつづける自動機械のようになってしまっているのである」[柏木博『道具とメディアの政治学』p.173]

    市場の全面化は歴史的には、冷戦構造といったわかりやすいイデオロギー対立が消失した結果、生活の隅々にまで資本の論理が浸透した時代状況を明確に反映しているのだという。

    市場が都市をつくり変える過程は、ロバート・ヴェンチューリの議論に詳しい。彼はラスヴェガスに代表されるような郊外ロードサイドや都心のビルの巨大な看板を観察し、建築自体が広告化しているという興味深い主張をした。ヴェンチューリは、都市=建築の広告化を次の二つのモデルで表す。装飾のみが前景化した建築を〈あひる(duck)〉に、看板などの装飾と建物とが完全に乖離している建築を〈装飾された小屋(decorated shed)〉に分類した。

    これらは〈Form Follows Function[形態は機能に従う]〉というモダンデザインの原理からの断絶として理解される。ラスヴェガス以前の建築は、機能の統合を達成するべく形態の開発を進めてきたのである。しかしもはや建築はあひるになってしまった。近代建築の理念を打ち崩して都市を広告で埋め尽くす程に、市場は全面化したのだ。

    テクノロジーを得たあひる
     レム・コールハースらによる『Project on the City 2: Harvard Design School Guide to Shopping』[2002年]は、ポスト・ラスヴェガスの都市論だ。そこはショッピングのためのシステムに彩られている。ネットワークやインフラ、テクノロジー、環境管理といった手段を用いることで、現代都市がいかに私たちの財布から紙幣を抜き取ることに長けているかを示している。

    ところで、都市計画家によるグランドデザインが鳴りを潜め、投機と都市開発による資本の論理に近代都市が晒されるようになった状況を受けて、全一的な都市像は見えにくくなったと言える。そうした状況に対して、同書は都市を鳥瞰によってではなく、生活の隅々にまで浸透したショッピングという行為およびそれを取りまくアーキテクチャを丹念にリサーチすることによって、現代都市の様相を浮き彫りにしている。

    本稿の文脈上とりわけ参照したいのは、Sze Tsung Leongによる〈Ulterior Spaces〉である。ここでは現代のショッピングを規定する機構が、内装でも外装でもなくulterior=秘められた位相において機能していることを示唆している。実例としてはGoogle AdWordsと比肩しうる顧客管理データベースに基づいた個人広告技術が──2002年当時のローテクな仕方で!──実装されていることなどを問題化している。最近の例ではウェブブラウザを通じて日々アクセスし、認証し、クリックしたログが知らぬ間にトラッキングされているといった言説は2010年代の今でも度々指摘されている。

    ここにおいて重要なのは、個人情報を売り買いする企業は、私たちの顔を知ることなく個人を同定しているということだろう。企業にとっての私たちは、その意味で情報の束に過ぎない。『Guide to Shopping』から早一〇年が経とうとしているが私たちは未だに──というよりはますます、ショッピングとネットワークの問題の中で生きている。

    このことは、伊藤の言う仮想現実というタームに込められた「なめらかな管理」という側面と響き合う。国家や体制といった外側からの強要ではなく、サービスという形で管理が提供サーブされるという点が重要である。ポスト・ラスヴェガスの都市は狡猾な管理を張り巡らせている。

    接続し、媒介する人工物との共生
     とはいえ、管理というのは配慮の必要な言葉である。これを過度に疎外論的な図式で理解してしまうことは、本稿の意図にそぐわない。サービスという形で「現に欲しいものが与えられつつも、その全体が管理されている」という微妙な緊張関係に配慮しよう。管理という言葉から「疎外」のコロケーションを脱色し、デザインの語彙に置き換えること。ここから一本の系を引き出せる。

    つまり市場という流通経路を通って、現代都市を彩る人工物──広告、交通、情報端末、データベース、サービス、建築=アーキテクチャ──は私たちの生活に入り込む。それらは私たちを市場へとゆるやかに接続するメディアである。この視点に立脚すれば、デザインされた人工物を境界面インタフェースとする〈人間−人工物〉共生系を定式化することができる。[本誌へ続く]

    『Rhetorica#02 特集:DreamingDesign』では、技術と未来を考える方法としてのデザインを特集している。

    僕たちは、自分たちが生きている現実に対して「ありうる」現実のビジョンをぶつける仕方で介入するようなものに出会いたいと常々思っていた。トップダウンのユートピアではなく、あくまでこの現実から出発して、この現実の具体的な構成要素を素材として、あれこれと繋ぎ合わせて作られた現実。嘘ではないけど事実でもない現実。

    そのような、可能な現実を扱うジャンルは何かあるだろうかと検討してみた。SFやメディアアートなどが思い浮かんだが、どれも自分たちの欲しいものにぴったりと一致するようには思えなかった。そんな折、デザインの近年の諸潮流に出会った。

    当初、僕たちはデザインに対して両義的な思いを抱いていた。デザインには魅力的な事例もプレーヤーも多く、人々の生活に深く入り込める可能性を持っている。いまある素材を組み合わせて違う現実を仮構する、というイメージにも合致しているように感じた。しかし同時に、デザインには言葉が足りないとも感じた。デザインにどのような可能性があり、どのように魅力的なのかを語る言葉が思った以上に少なかった。

    そこで僕たちは、デザインの可能性を少し掘り下げて考えてみることにした。この雑誌は、デザインの専門家だけで作られているわけではない。思想や建築といった、ばらばらの分野の人間同士で組んで生み出した特集である。だからこそ、それぞれの視点から、デザインの面白さ、そして可能性を掘り下げることができた。

    そして、可能性を取り出そうとするあまり、既存のデザインの定義にはおさまりきらないものとなってしまったと感じた。

    だから僕たちは、そこに〈DreamingDesign〉という新しい名前をつけて、外に問うてみることにした。人間の生の条件と、人工物の環境は、いまや深く絡み合っている。その絡み合いを解きほぐし、再び自由に結び合わせることで、別のありえた現実を再構成することができるとしたら、それはまさに白昼夢ビジョンだといえるだろう。それは、私たちが環境に対して、そして現実に対して持っていたイメージを変えてしまう。それはまさに、夢に取り憑かれるようにして、自分の生き方が少しずつ変わってしまうことでもある。人工物と人間が、今よりももっと深く共生しあうようになった未来では、そのような夢がもっと前景化して、「単一の現実」のほうがばかばかしい夢のようなものになっているのではないだろうか。

    『Rhetorica#02 特集:DreamingDesign』は、四つのコンテンツからなる。

    まず、太田知也「Fitter Happier? 〈人間‐人工物〉共生系の都市論」は、デザイン史に存在していた刺激的な議論を掘り起こしながら、現代の技術状況におけるデザインの役割を定位しようと試みている。まず、諸人工物のネットワークが取り巻いている私たちの生活環境を〈人間‐人工物〉共生系と名付けたうえで、ラディカル・デザインの着想を応用しながら、そうした共生をハッキングするような事例について分析している。また、そうした、人間存在と相互に絡み合っている人工物をハッキングする想像力をさらに先鋭化した潮流として、クリティカル・デザインやスペキュラティブ・デザインの事例も紹介している。これらはまだ日本語での紹介も少なく、本論文は資料としても貴重なものとなっている。

    続いて、松本友也「ヴァーチャル化とディスポジション──DreamingDesignについてのノート」は、情報環境を扱った思想家であるミシェル・セールの「ノード/ネットワーク」概念やピエール・レヴィの「ヴァーチャル化/アクチュアル化」といった枠組みを手引きとして、DreamingDesignの目標や理論的な射程について議論を展開している。DreamingDesignは、環境と人間身体の相互関係を前提にしているが、具体的にそれらがどのように関わりあっているのかを捉えられなければ、それ以上の発展は見込めない。主観の構造のモデルをヴァレリーの時間論から取り出しつつ、態勢(disposition)の習得と変容のメカニスムを解き明かすことで、本当の意味で「効果的な」デザインとはどのようなものか、ということを考察した。

    そして、建築を専攻する中村健太郎は自身が開発に携わるツール〈ARKHITEKTOME〉、そしてツールの背景にあるアルゴリズミック・デザインについて、それがプロダクトの生産に寄与するという方向性ではなく、人間の創造的な思考を攪拌しサポートするツールとして捉え直そうとしている。本コンテンツは勉強会形式になっており、中村の基調講演に対して松本・瀬下が自身の関心に引きつけて応答を行うという形になっている。特に松本は、記号と分類に関する哲学的な議論の系譜と関連付けながら、ARKHITEKTOMEの可能性についてコメントを行った。

    最後のコンテンツは、批評を専攻する成上友織と、松本友也の往復書簡形式の論考となっている。両者は本誌の前号においても、キャラクター概念についての座談会を行っており、今回も事前に「キャラクター」というテーマを設定していた。実際に出てきた書簡は、それぞれの問題意識が色濃く反映されたものになっており、成上はアニメ『ラブライブ!』をテーマに、キャラクターの存在論的な地位について、直観をフルに活用しつつ議論を行っている。松本は、自身の論考のキーワードでもあった「態勢」概念とキャラクター概念をだぶらせながら、キャラクターを生み出す基盤としてのアイドル、そしてダンスするアイドルとそれを鑑賞する者との間に起こる事態を、反省的に捉えようとしている。

    以上が本誌のコンテンツである。率直に言って、ジャンルは多岐に渡っている。興味の湧いたいたものから読んでいただいて構わない。僕たちは本誌の主題について、お互いに何夜にも渡って議論を交わしてきた。直接示し合わせていなくとも、提示されるイメージや語彙は互いに近づきあっている。一つでも目を通していただければ、僕たちがどの方向を向いているかがわかるはずである。DreamingDesign自体にどのような感想を持たれるかはわからないが、技術と思想に関心のある読者にとって、何かしら響くものがあることは自負している。